ビスケットの輸出が順調に拡大していくにつれ、『森永ビスケットは高品質である』との評判も高まり、次第に国内販売への要望が強くなっていきました。
そして1920年(大正9年)、とうとう本格的に国内でビスケットを製造販売するために、新工場『塚口工場』の建設に着手したのです。(塚口:兵庫県尼崎市塚口町)
工場建設用地には、8万5千坪(東京ドーム約6個分)という、当時ではケタ違いに広い敷地が用意されました。なぜならそこには、生産環境や福利厚生施設などの点でも欧米にひけをとらない、『働く人の理想郷・森永タウン』を作りたい。という太一郎の壮大な夢が込められていたからです。
※解説【働く人の理想郷・森永タウン】
翌1921年(大正11年)3月、国内はもとより、東洋のどの国にも見られなかった、鉄筋コンクリート3階建ての近代的なビスケット工場『塚口工場』が完成しました。
そこには、英国から調達した最新式のガスオーブン7台をはじめとして、最新式のビスケット製造設備が据えつけられたのです。
(それまでの日本のビスケット工場の釜はほとんどが煉瓦釜でした。)
そして、翌1922年(大正11年)1月1日、英国のビスケット技師アッシェル父子を雇い入れ、経験豊かな彼らの指導により本格的なビスケット製造技術を習得したのです。
しかしヨーロッパ風ビスケットの味は、当時の日本人の嗜好には受け入れられにくく、納得できるものになるまで研究を重ねました。