国内発売を始めてからというもの、森永ビスケットの人気は広がり続けました。最新鋭の設備を備えた塚口工場、そして関東地区での製造の拠点として、森永は新しい工場の建設に踏み出したのです。それが横浜鶴見に建てられた鶴見工場で、1925年(大正14年)に生産を開始しました。
採光や通風、機械配置や作業環境を十分に考慮したヨーロッパスタイルの新鋭工場の登場で、森永は、関西に塚口工場、関東に鶴見工場と、東西それぞれに近代的な総合生産拠点を構えることとなり、製造力が飛躍的にアップし、大量生産が可能となりました。
塚口、鶴見工場ともに、当初は美しい印刷化粧缶入りの進物用ビスケットの製造を主としていました。そのおかげで、中元、歳暮用の美麗包装進物としてビスケットは確実に定着していきました。しかし一般に普及するには、まだまだ高価なものだったのです。
そこで森永はより多くの人々にビスケットを楽しんでもらうために、ボール紙にワックスを塗ったパッケージを考案し、40銭で販売。新しい販売方法として業界センセーションを巻き起こしました。
1936年(昭和11年)4月には、パッケージビスケットの実用新案登録を行ったのです。
しかし、やがて1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まると、原料どころか食糧も不足し、軍用品を除いてほとんどの菓子の製造ができなくなっていきました。