1945年(昭和20年)、戦争は終わったものの、厳しい原料統制のため、自由な菓子の製造は依然としてできませんでした。 そんな時期、森永は米国赤十字社からの注文を受けることとなり、ビスケットやクラッカーなどの製造を再開したのです。
原料は全て米軍支給で、小麦粉や砂糖などの原料を満載した米軍トラックが鶴見工場の門を入ってきた時、工場関係者は思わず万歳!を叫びたい衝動にかられたといいます。
戦時下において、作りたいものを作れず悶々としていた技術者魂が、初めて戦後の平和を実感した瞬間でした。
その後1947年(昭和22年)には、進駐軍専用売店の受注が決まりました。しかしそこには、今まで味わったことのない大きな苦労がありました。
米国特需品の生産について、派遣された米国監督官により、徹底した衛生管理と物量管理が指示されました。
『一定の原料で、より高い品質で、より大きな出来高』を要求する監督官と、『即応的な仕込み調整技術』に支えられた現場技術者とのずれが、数々のトラブルを生んだのです。
しかし、レシピーや作業標準、製品企画などを確認、解析した学卒社員の知識、そして 懸命な努力のなかから、計数管理的な作業標準を生み出した現場技術者の工夫が、トラブルを一つ一つ解消していったのです。
ここで培われた『現場の経験的な勘や口伝によるスキルから、作業標準化と科学的管理へ』の発想は、その後の森永の大きな礎になっています。