第六話(1910年〜1928年)
高温多湿の日本では、ミルクキャラメルの品質保持のため、作業場の温度管理に空調の必要があります。けれど当時、日本はもとより欧米でも、製菓工場でそのような設備を持つところはありませんでした。そこで大正7年、松崎支配人はイギリスより化学工業用のものを購入、その構造や使用方法について詳細な研究を行いました。この研究をもとに、大正14年に完成した鶴見工場では、国内メーカーと共同開発した巨大な機械を実用化させます。 こうしてキャラメルもようやく大量生産できるようになり、販路は日本全国のみならず、中国や台湾、朝鮮、東南アジアの各地にまで及びました。また、大量生産が可能になるにつれ、キャラメルの広告対象も「煙草代用」のための成人層から次第に子供たちへと拡大され、教育上参考になる絵カード入りのものも売り出されました。 | ||
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