母が妹を出産するとき私と父で車に乗り
病院に駆けつけた。
待ってる間私がぐずり泣き売店で父が
チョコモナカジャンボを買ってきてくれて
二人で分けて食べた。
食べながら父は私に、これからお姉ちゃんになるね
妹が大きくなったら今度は妹と
二人でアイスを分けて食べるんだよと微笑んで
私に大きい方のモナカをくれた。
夏になるとその事をたまに思い出す。
今度妹と分けてチョコモナカ食べようかな
大きい方は妹にあげて、昔の話をしながら。
森永製菓商品の歴史
森永製菓商品の
たくさんの思い出エピソードの投稿を
ありがとうございました。
なんと2500通も応募があり、
森永製菓社員で
1通1通読ませていただきました。
どの作品も優劣つけがたいほど
素敵なものばかりでしたが、
その中から優秀作品として
10作品をご紹介いたします。
【しあわせのミルクキャラメル】
「甘くて、幸せの味がするね」
私は、にっこりと祖父に向かってほほ笑んだ。幼いころを思い出すと、真っ先に頭に浮かぶのが、黄色く四角い箱にぎっしりと入った、森永製菓の「ミルクキャラメル」。商店をしていた私の家は、両親が毎日とても忙しかったために、
同居していた祖父母と遊ぶことが多かった。寂しくてだだをこねた時や転んで泣いたとき、きまって祖父のポケットから出てきたのが、ミルクキャラメルだった。
ごつごつとした手で、四角い箱をポンと開け、包みを一つ、ぎゅっと私の小さな手に握らせる。なぜだろう?ほおばると、甘さが口いっぱいに広がって、悲しい気持ちを忘れてしまう。いつの間にか泣き止むと、祖父も決まって一緒にキャラメルを口に放り込んだ。「キャラメルは、魔法のおやつなんだ」祖父が口癖のようにつぶやく。私たちはお互い自然とニコニコ笑顔になって、大切な時間を過ごしたのだった。今となってはもう戻れない、幼いころの大切な、大切な記憶。
時はたち、私が成人したある日、祖父が病に倒れた。病院へ面会にいくものの、食欲もなく、何も喉を通らない状況。そんな時、ふと私が思い浮かべたのは、幼いころ祖父と食べた「ミルクキャラメル」だった。飲み込まなくても、口に入れるだけなら大丈夫なのでは?と、ポケットにミルクキャラメルを忍ばせ、病室の扉をトントンとたたく。
寂しそうにベッドの足元を見つめていた顔が、ぱっと明るくなり私の方を向いた。「もしよかったら、食べてね」と、祖父のやせ細ったしわくちゃな手に、ミルクキャラメルの包みを一つ、そっと乗せた。すると、祖父はおもむろに包みをあけて、昔のように口に放り込んだ。祖父は天井を見上げ目をつむると、長い時間をかけて、何か思い出しているようだった。「幸せの味がする」と、祖父がたった一言つぶやく。幼いころの風景が鮮明に思い出され、私の心には、悲しい思いと温かな気持ちが入り混じり、病院の帰り道、涙が頬を伝った。
私にとってミルクキャラメルは、思い出そのもの。記憶の中にも、そして今もかたわらにある、森永製菓のお菓子たち。月日は流れ、母親になった今「子供もいつか、一緒に食べているお菓子を思い出してくれるかな?」とふと思いながら、甘い時間を過ごしている。
──昭和二〇年、東京の空襲も激しくなった頃、女学校で教員をしていた父も南方戦線へ出征して行きました。
毎晩のように空襲は続き、防空壕の中で母は娘の私を抱きしめながら、「お父さんは戦地でもっと苦労しているのよね、それにきっと甘いものが何も食べられずに困っているわ」と、
大の甘党であった父のことをそう言いました。
その戦争もやっと終わり、やがて、突然父の戦死の知らせが飛び込んで来ました。
それから半年ばかり後、今度は父が死んだ時に背負っていた背嚢が母のところへ届けられました。背嚢には、母と私の写真、汚れた手拭、毛布、教え子の女学生から来た何通もの手紙、ついに届けられることがなかった母宛の手紙、そして何やらくしゃくしゃの紙に包まれた小さなものが背嚢の底に残されていました。
母は、背嚢の中から震える手で私たちの写真を取り出したとき、気丈にも泣き顔などは見せませんでした。父に宛てた生徒の手紙を一通ずつ読んでいるときも、母に宛てた父の最後の手紙を読むときも時々鼻を鳴らすだけでした。ところが、さも大切そうに背嚢に入れてあった紙に包まれたものを見た途端、母は号泣したのです。
背嚢の底に、まるで宝物のように隠されていたそれは、どうやらひとかけらのキャラメルのようでした。甘党の父が戦地で一つ一つ大切に食べ、最後に残ったキャラメルに違いありません。
それから毎年背嚢が届けられたその日に、母は、父の仏前に黄色い箱の森永ミルクキャラメルを一つ供え続けました。その時、母いつも少し泣きます。
母が他界した今は、私がエンゼルマークの箱を、母の分も加えて二つ仏前に供えています。私は泣かないようにしていますけど。
私が中学3年生の時の話です。高校受験のための勉強がうまく行かず落ち着かない日々を過ごしていました。学習塾に通ったり家庭教師に学んだりして、模擬試験で良い成績をとったと喜ぶクラスメートたちの姿に、家が貧しくて自力で頑張るしかない私は羨望の念を持ちました。私立高校と公立高校の両方を受験する
併願も経済的理由で諦め、寄付金もいらず授業料の安い公立高校一本に絞りました。受験前日、私は緊張状態でお腹の調子が悪くなり、寝床とトイレとの往復で睡眠が取れない有り様。受験当日の早朝、食事も取らず出かけようとした私に、祖母が「これ、あんたに幸運をもたらすアメちゃんやから、持って行きぃ」と言い、黄色い箱と雑誌の切り抜きを渡しました。箱は森永製菓のミルクキャラメル、切り抜きは私の誕生月の占い記事でした。その記事には、私のラッキーカラーが黄色、ラッキーアイテムが飴、運が開ける、勝負事に勝つ~などと書いてあります。日頃、占いなど信じない私ですのに、体調の弱さが私を変えたのでしょうか?不思議なものです。その記事が私の気持ちの中に深く入り込みました。アメを口に入れ、ゆっくり舐めると、甘くて空っぽの腹を満たしてくれて、元気をもらったような感じです。「おばあちゃん、ありがとう。このアメちゃん、なんか美味しいわぁ。頑張ってくるね。」と何個も口に入れて、外に飛び出しました。そして、私は希望した高校の一年生になる事ができました。ミルクキャラメルと雑誌の切り抜き記事は、私の高校受験の三ヶ月前から祖母が用意したものだと知ったのは、私が大学2回生のときです。祖母が亡くなり遺品整理をしていたら、他種類の雑誌の占い記事の切り抜きがあり、私に一番相応しい記事を選んでくれたのでした。そのことを知って私は声を上げて泣きました。ミルクキャラメル、何年立っても色褪せない思い出を連れてきてくれます。
長く一人っ子だった私にやっと弟が出来、その弟がミルクを卒業し、柔らかいお菓子を経てキャンディーやキャラメルをおやつに食べられる様になった頃の思い出です。
田舎で育った私にとってキャラメルは最高のおやつでした。
父が買って来るキャラメルはいつも私だけの物、縁側で足をブラブラさせながら
一人で味わったものです。
ある日渡されたキャラメルを弟が欲しがり、母から「一粒あげなさい」と言われました、内心「えーっ」と思いましたが、コロッと手のひらに出して、無邪気に「あーん」と開けた口に入れてあげました。
弟は美味しそうにモグモグして、「おいしいね、ねーたん ありがと」そう言ってくれました、それまでに何度も「ねーたん」と呼ばれたはずなのですが、私にはその時が初めて「ねーたん」と呼ばれたように記憶しています。
それからは、弟がもう少し大きくなるまで一箱のキャラメルを仲良く二人で分けながら食べていました。
年の離れた弟との、何とも甘い懐かしい思い出です。
ひとり暮らしを始めたころ、親に甘えっぱなしで家事なんてやったことがなかった私は失敗の連続。おまけに新しい環境と人間関係になじめず緊張と不安でピリピリとした毎日を送っていました。そんな時に母から届いた小包。中にはふりかけだとかレトルトカレー、果物…そして森永ミルクココアが入っていました。
なんでココア?と手に取った時に思い出したのが昔、私が落ち込んで泣いていると母は必ずこのココアを作ってくれたこと。温かくて甘いミルクココアを飲むと不思議と気持ちが落ち着いて涙が止まりました。
すぐさまお湯を沸かしてココアをコップにひとすくい、お湯を入れるとふんわり懐かしい香りがたちました。
フーフーと冷ましながらそっと飲むと昔と変わらない優しい甘さ。ひとくち、ひとくち飲むにつれてなぜだか胸がいっぱいになって涙がこぼれてきました。
コップが空になるころには涙でグズグズだったけれど頑張ろう、私、頑張れる!と色んなものが吹っ切れて気持ちがパッと明るくなっていました。
森永ミルクココア、私の優しい味方です。
私は昭和33年に生まれた。当時はコンビニや地元に喫茶店などなく甘いスイーツなど見た事もなかった。唯一誕生日だけはケーキで祝うのだが、今の様に苺で飾り生クリームと柔らかいスポンジのケーキはなく、バタークリームと赤いゼリーの飾りで今ではお目にかかれない粗末なケーキ。私の息子が食べたら
「何これ」と違う意味で衝撃を受けそうだ。あの時代は贅沢品が乏しい時代だった。そんなある日叔母の家に遊びに行くと、森永のホットケーキを焼いてくれた。焼きたてのホットケーキにバターを塗りシロップをかける。それをナイフで切りフォークで食べる。温かいおやつなど食べた事がない。ましてフォーク、ナイフなど洋食を食べない我が家では使い方も知らない。叔母は笑いながらフォークとナイフの使い方を私に教え森永のコーヒーも出してくれた。母と叔母は11歳年齢が離れていた。戦前に少女期を過ごした母と違い叔母は何事にも進んでいた。初めてコーヒを飲みながらホットケーキを食べる。ほろ苦いコーヒーの味と柔らかくて美味しいホットケーキ、憧れていた洋画の一シーンが現実になった気分。お茶とせんべいの和風なおやつしか知らない私は衝撃を受けた。何やら自分が急に大人になった気分。その話を母にすると家でもホットケーキを焼いてくれた。だがバターもなく箸で食べたのは今となってはご愛嬌。歳月が過ぎ自分も大人になり色々と美味しいスイーツを食べたが、あの時食べた焼きたての森永ホットケーキ程の感激はなかった。飽食の時代で何を食べても感激をしなくなっていた私だが、妻が焼いてくれるホットケーキだけは例外だ。その時はナイフやフォークも使えなかったあの時代の自分がそこにいる。無邪気に喜ぶ私を見て妻は「どんな美味しいおやつを作っても無反応なあなたが、ホットケーキだけはなぜ喜ぶの?」と不思議がる。大人の世界に少しだけ足を踏み入れた喜びがまだ私の心に沁みついているのだろう。あの時飲んだコーヒと焼きたての森永ホットケーキは本当に美味しかった。昭和から平成を経て令和となる。3世代を経験する私の思い出に登場するおやつは、やはり叔母の家で食べた焼きたての森永のホットケーキだろう。
私の妹の子ども・甥っ子が3歳頃のお話です。
初めての甥っ子は、とにかくかわいくて。
当時、私はまだ実家暮らしでしたが、
妹たちが遊びに来るのを何より楽しみにしていました。
そんなある日、遊びにきた甥っ子が何か大切そうに抱えていました。
見ればそれは「マンナビスケット」。
最近いちばんお気に入りのおやつ、とのことでした。
ニコニコ大切そうに食べる姿があまりに愛らしくて、
私は、わざと無理なお願いをしてみたくなりました。
「おいしそうだね。私もひとつほしいな~」
すると甥っ子は、ビスケットと私を何度か交互に見つめた後、
うやうやしく一枚差し出してくれながら、こう言いました。
「特別だよ~」
それはきっと、いつも彼がお菓子をもらう時にママから言われる
「特別(にあげるん)だよ!」のマネだったのだと思います。
でも、当時婚活中で、誰かに“特別”をもらうことが
いかに難しいことかと感じていた私には、
「特別(な物をあげるん)だよ」に聞こえて。
甥っ子の手はなぜかベトベトしていたし、
渡された「マンナビスケット」は小さかったけれど、
美味しくてうれしくて、一枚でお腹いっぱいになったのを覚えています。
その後、甥っ子が私にくれる“特別”は、
うまく描けた絵になり、ユニークな工作になり。
そして、私の結婚を祝福する言葉になり…。
年を重ねるにつれ、“特別”は形を変えていきました。
今はもう、私と肩を並べる程大きくなった甥っ子と会うたび、
あの時、大切なビスケットを分けてくれた優しさを持ち続けられますように。
そして何より、“特別”をあげたいと思える人に出会えますように。
そんなことを思います。
私にとってダースは勝利へと導いてくれるチョコレートです。
幼少の頃から続けていた柔道。周囲からは認められているものの、なかなか自分が望むような結果は出せずに苦しい日々が続いていました。
そして迎えた高校最後のインターハイ予選。その日のことははっきりと覚えています。試合会場に向かう途中
、コンビニに寄り、飲み物と栄養補給の食べ物を購入しました。これまでの私は、試合の合間に口にする飲食物にこだわりがなく、その日の気分で適当に選んでいました。「新商品」と表示があったからとか、「たまたま目の前に陳列していたから」とか、本当にそんな簡単な理由です。しかし、その日は意図的にダースを手に取る自分がいました。ミルク味の赤いパッケージです。理由は「赤は勝利の色」と以前どこかで耳にしたことがあり、それを突然思い出したからです。一口サイズで食べやすい大きさだということも後押しして、私はインターハイ予選の「勝負チョコ」にダースを選びました。
初戦から決勝戦まで、数試合あるなかでダースを少しずつ食べていきました。12個入っていることが予め分かっているので栄養補給の量やカロリーの調整もしやすかったことを覚えています。そして決勝戦。相手は一度も勝ったことがない相手でしたが、私は初の勝利を奪い取ることができました。最後の試合にして最高の結果になったのです。試合から帰る道中、1個だけ残っていたダースを食べました。その時の味は今でも忘れられません。今まで食べたどんなチョコレートよりも最高においしかったことを。
それ以来、私は大事な日にはダースを買うようになりました。入学式や初出勤、人生の節目の日には必ず鞄の中にはダースが入っています。ダースを見ると、あの試合の日の自分が蘇り、自分自身を鼓舞させることができます。やる気を起こすことができます。
今までもそうだったように、これからも人生の中で何度も訪れる勝負に、私はダースと共に挑んでいくことでしょう。
だって「赤は勝利の色」、そして「ダースは勝利の味」なのですから。
今から30年位前、私がまだ妻と結婚する前の話、カナダにワーキングホリデーに行っている時に知り合ったので、日本に帰ってきてからも共通の趣味のスキーに行く事を口実に再会しました。私が山形に出張があった時に、二人で蔵王のスキー場に行きました。1日券のリフト券も事前購入済、ビデオカメラも
準備万端に、滑るのに邪魔になる物は車の中に置いて、山頂に向かうゴンドラに乗りこみ、初めて見る樹氷にも感激しながらスキーを楽しんでいました。ところが、2時間位すると、雲がたちこめて、急変する悪天候、気温も急激に下がり、スキーを続けるのは断念して一時レストハウスに。
スキーの事に夢中だった二人は、うっかり財布を車の中に置いてきてしまっていました。大失態に大笑いしながら、小銭がポケットに残っていないかお互いに探して、合わせて残っていた現金はわずか150円。「この寒空に暖かい珈琲一杯も買えないね」と苦笑いしていたら、彼女が「ハイソフトなら売店で買える。これで元気回復できる筈。もう少し天候収まったら、1回リフト乗る度に一粒づつ食べよう。」空腹も寒さも、二人の距離も暖かく包み込む味でした。それまでも、ハイソフトは食べた事があるけれど、この一粒一粒の味は生涯忘れられない位格別な味でした。今でも冗談めいて最後の晩餐に選ぶなら、あの時二人で蔵王のゲレンデで食べたハイソフトだね。と言っています。